【ツツ考】[020]___
◇「作業」
対象物に或るモノを接触させる行為をツツキという。強く当てますとタタキ(叩き)、軽く触れるのはソ・ダタキ(記の歌に、曽陀多岐)と言うのだそうです。
棒状のモノの先でツンツンやればツツキ(突き)ですが、それがグサッとめり込むとササリ(刺さり)です。グゥ(こぶし)でゴツンとやるのはド・ツツキ(どつき)と、皆ツツキの音でできています。
面上を物体が移動している様子もツツキといい、ツツが音便によりトオに、キがリに転じてツツキ→トオリ(通り)になる。摩擦の動作はススリといい、ススリ・コキがスリコギになる。
雪上で使うソリ、髭剃り、これらのソリも元はソソリだったのでしょう。その状態を見ると、ソソリの意味は「滑らかな移動」というところでしょうか。
「スズリ(硯)で墨をススリ(摺り)、便りをツヅリ(綴り)、ポストに入れればトドキ(届き)…」全てツツキから作られた言葉です。
*ツツは動きを表わす言葉ですが、動詞では有りません。品詞の中で、名詞、副詞、また形容詞などは早い段階で存在していたと思われるが、動詞は意外に遅かったのではないでしょうか。
◇ツツから、ちょっと逸れますが…。
動きを表わす言葉は単語の後ろに、カル、ケル、などを付けます。これが後に動詞になっていったと思われます。
例えば、アルキ・ケル→ アルク(歩く)、イニ・ケル→ イヌ(退ぬ)、などのように省略される。カルやケルは助動詞(動詞の後ろに付けて丁寧にする語)とするが、本来は名詞の後ろに付けて動詞化する語でしょう。
▽ちなみに。
アイヌ語で「酒を作る」をサケ・カル(sake kar)という様です。(サケは和語からの移入語)
また、魚をチェプ(chep)といい、チェプカル(chepkar)は魚料理という名詞になるという。
関西では刺身を「お造り〔ツク・リ〕」といいますが、カルがクリになった「魚〔ヲ〕・ツ・クリ」ではないだろうか。
クリ(庫裡)、またクリヤ(厨房)は炊事場の意ですが、クリ(料理)のヤ(舎)が語源でしょう。
「つくる」という言葉は、例えば合掌造り(合掌・ツ・クリ)、子作り(コ・ツ・クリ)といった、名詞の後に付けた「ツ・クリ」の音が元かも知れません。
◇「機織り」
上代またそれ以前、機織りは女の嗜み事〔タシナミ・コト〕として必須であったようで、《崇神記》に「男弓端之調 女手末之調」とあります。
手末〔たなすえ〕とは手の先(指)を意味する語ですが、同時に手先を使った作業(たなすえ仕事)を表わし、ここでは糸布の製造をいいます。
それは后や皇女であっても例外ではない。ただ王族の女の場合は業務としてすることは勿論ないし、そんな作業に興味がない人も多くいたでしょう。
嫌〔いや〕ならやらなくて良い、というのが高貴な人の特権です。だが、中には機織りが大好きな人も居たに違いありませんよね。好奇心の問題ですから、そこに身分の尊卑など関係は有りません。
母親が熟練者なら、その娘もまた子供の頃から機〔はた〕の前に座ることになる。才能を持った者は周囲の大人たちを感心させ、褒められ、益々熱心度が高まっていった事でしょう。
◇孝霊天皇(七代)の妻の一人は機織りの技能が高かったようです。その娘と二人の異母姉妹、この三人も、仲良く、或いは競い合いながら機織りをしていたと思われます。
*横糸を通すための道具を「梭〔ヒ〕」というが、これを操る作業を「ツツ梭」といいます。彼女達の手捌きは見事なもので、右に左に目にも留まらぬ速さで、飛ぶようであった。
織られた糸は見る見るうちにモモ(集積)となり、ソ(裳)になっていく。
彼女達の名には千千、登登、迹迹、の字が並びますが、これらのチチやトトは梭を飛ばすツツ(移動)を表しているのでしょう。
そして、彼女らの中の一人は、トトヒ・モモソ・ヒメと呼ばれます。勿論、本名ではあませんが。
*《記》にある神名人名は、その殆どが固有名ではなく、社会の中での役割や立場を表わす呼称です。ここにある比賣たちの名もまた実名(身の名)ではなく、ある種の“あだ名”なのでしょう。
《古事記》に、───
大倭根子日子國玖琉命(孝霊天皇)
又娶 春日之千千速眞若比賣
皇女・千千速比賣命
又娶 意富夜麻登玖邇阿禮比賣命
皇女・夜麻登登母母曾毘賣命
弟・倭飛羽矢若屋比賣
《書紀》では、───
妃 倭國香媛、亦名絚某姉(《記》阿禮比賣命)
皇女・倭迹々日百襲姫命
弟・倭迹々稚屋姫命
《記》と《紀》では使われる文字が違っていますが、《紀》の母と娘達は《記》の二人目に記される妻子と同一人物でしょう。
これらの名は、機を織る様を表したものと思われます。千千速〔チチハヤ〕、母母曾〔モモソ〕、飛羽矢〔ツツハヤ〕。そして迹々日百襲〔トトヒモモソ〕などは「飛ぶ梭、績裳」を意味する描写でしょう。
▽ちなみに。
奈良県桜井市にある箸墓古墳は、この倭迹々日百襲姫命〔ヤマト.トトヒ.モモソ.ヒメのミコト〕の墓とされます。
邪馬台国畿内説を主張する人達のなかでは、この女性が卑弥呼ではないかとされます。
三世紀の日本列島には、あちこちに多くの環濠集落が存在していました。同時代に作られた女性の墓で、その規模が所謂《魏志倭人伝》の記述に合致する、という理由だけで関連付けるのは、少々無理があります。“候補”という位置付けに留めておくべきでしょう。