「数のこと」八(2)

数[027]___

◇「日本の聖数

世界の国や民族には聖数というのがあるらしい。日本人にとっては古来から「八」が聖数とされます。

八世紀初頭に編纂された古事記日本書紀には、やたらと八の字が使われます。特に神世の話に多いです。古墳時代は勿論、もっと前の時代から八が大好きだった、という事でしょう。

何故、八が好まれたのか。末広がりが縁起の良い形だからとか、美しい富士山の稜線の様だからだとか、色々な説があります。

 

古事記》に次のような歌があります。書写本では詰め書きされています。さて、どこで切れば良いのでしょう。
夜久毛多都伊豆毛夜幣賀岐都麻碁微爾夜幣賀岐都久流曾能夜幣賀岐袁 (真假名 表記)

ヤクモタツイヅモヤヘガキツマゴミニヤヘガキツクルソノヤヘガキヲ (片仮名 表記)

◯一般的な解釈…
 八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに
 八重垣作る 其の八重垣を
短歌というものは其れができた時から、三十一文字〔ミソヒトモジ〕であり、上句・五七五、下句・七七、という形であった事を前提としている。或いは、後代の人の手が加わっている可能性もある。

◯或る解釈…
 八雲立 出雲
 八重垣 津間混みに
 八重垣 作る曾野
 八重垣を
四行の歌。行の頭にそれぞれ八の字があり、ずらっと八が並びます。和歌の始まりは長歌も短歌も、一行のうちに一語句ずつが上句下句に分けられる形だった。また、必ずしも七五調とは限らない。

 

最古の歌
現存する日本最古の書物である《古事記》に登場する最初の歌は、須佐之男命が詠んだ、上に紹介した歌「夜久毛多都…」です。
(※地名国名[033]曾野、園。参照。)

つまり、いま存在する全ての和歌の中で、これが、確認できる最古の歌という事になります。確認できる…であって、これが最初の和歌というのではありません。

須佐之男の時代(いつの頃か不詳、ざっくりと大昔)にあって、日本に漢字は存在したのでしょうか。もし、未だ漢字は伝わって来てはいなかった(或いは漢字自体が地球上に無かった時代)というのであれば、日本人が8という数を好む理由として、八の字のビジュアルを評価の対象にするのは成り立たない理屈です。別の視点が必要ですね。

 

◇「八」は「ィア

八雲〔ヤクモ〕、八重垣〔ヤヘガキ〕、八種〔ヤクサ〕、八十嶋〔ヤソ・カシマ〕、八百萬〔ヤホヨロヅ〕など、記紀には八の字が其処此処に並びます。

しかし、ここにある八が字義通り、数の8を表わすために使われているのでしょうか。それとも、ヤという音を表わす文字としての役割りでしょうか。

 

アツ
優れたモノは頭にアツの音を乗せます。文字にすると、大、強、超といった、善悪に関わらず大きな存在に対して付く語です。これに予唸音・イが付き、ィアツ(ヤツ)と発音され、この音に同じ音を持つ八ツの字が充てられます。

八が乗る言葉や呼称の大方は、アがヤと転じた音に充てているに過ぎません。八の字に限らず、規模や量を表す言葉に同じ音を持つ数文字があれば、確実に使われます。

 

◇末広がり、富士山、これらの根拠は残念ながら後付けですね。ただ、八の字が一般化した後の人たちがそう思うのであれば、それもまた一つの意味付けとは言えます。

ただし、八が聖数になった理由として、これら(末広がりや富士山)を持ち出すのは、やめたほうがいい。嘘つきになってしまいます。

日本人が好きなのは、八という数でも無ければ形でもない、アツ(ィアツ)という音だったのですから。

 

 

◇「ワッショイ」

アツ・し負い
大勢の人が派手に陽気に物を担ぎ上げて運ぶ時、担ぐ人達も周りにいる人達も、皆が「ワッショイ」という掛け声を連呼して盛り上げます。

ワッショイとはどういう意を持つ言葉だろうか。この語を分解すると、次のような形が見えてきます。

物を体に乗せる、また全身を使って持ち上げる、そんな動作や行為を「為負い(シ・オイ)」と言いました。シは行為を意味し、今の言葉でいう「する」にあたります。オイは担ぐことで「背負い」などと同じです。

この語の頭に、大きい、多い、など言葉を強める語「アツ」が乗ってできているのが分かります。

アツ・シオイという言葉は、皆の動きを合わせる拍子取りの為と、勢い付けの意味もあるでしょう。当然、声は大きくなりアツに予唸音が付きやすくなります。その結果、アの頭にウやイが付着して、次の様な音になります。

  ゥアツ・シオイ → ワッシォイ。
  アツ・シオイ → ヤッシォイ。

この語は、大勢の大きな力、皆んなで担ぐ(為・負い)、そんな時の掛け声、囃し声になります。ヤッシォイの後ろの音が流れて、ヤッショー、ともいいます。ヤッショがヨイショにもなったのでしょう。(※シォイは通常ショイと表記しますが、元はシオイです。)

 

 

わし掴み
〔ワシ〕が獲物を荒々しく掴むこと、またその状〔さま〕をいう。 ── この類の内容が語解書籍類では説明されてます。

しかし、アツ・ツカのアツが、ゥアツ→ワシと転じて“ワシ・ツカ”と発音されただけだとすれば、意味は単に、多くを掴む、強く掴む、また全部を掴む、などの意味になります。

「鷲〔わし〕が、鋭い爪を食い込ませるように、荒々しく、力強く、小動物を掴んで飛び去った。」この話のほうが面白い、しっくりくる、という事でしょうか。

元は、シャレ言葉として「鷲がワシヅカミ」などと言ってたのかも知れません。それが何時しか、鷲が掴むからワシヅカミ、これが語源と受け入れられ、定着してしまったと思われます。

真実かどうかより、“こっちのほうが面白い”、というのが優先される、そんな事が世の中にはしばしばあります。

「数のこと」四と八(1)

数[026]___
」と「

◇「数の組合わせ」五組。
 [小・大]       (原音)
  一:二  ヒィ:フゥ(キツ:カツ)
  三:六  ミィ:ムィ(キィ:クィ)
  四:八  ヨォ:ヤァ(オツ:アツ)
  五:十  イツ:トォ(キツ.ツツキ:ツツキ.ケル)
〈端数〉
  七:九  ナナ:ココ (ナナ.ツキ:クク.ツキ)

 

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◇「」と「」の音
日本の数のかぞえ方で、四はヨツ、八はヤツ、と言いますが、これらを表す音の作られ方は、オツとアツから始まります。

 

◇「アツ」の意味
アツという音には様々な意味があります。その中の一つ、量的なモノを表す語としても使います。その場合、アツの他に頭に予唸音・イが付いてィアツ(ヤツ)という音も使われたようです。この語が持つ意味として、概ね次の種類があります。

①「優れたモノ」 ②「規模や量」
③「長さの単位」 ④「数の8」

 

①「優れたモノ
接頭辞として単語の頭に置かれる。大きな国、力を待つ者、などを表します。また賛辞、褒称、を表わす接頭語としても使われます。

  • アツ・カツマ(優れた土地)がヤツ・カシマに転じ、この音に上代の人が「八・嶋」の字を充てました。ただ、記紀では「八つの島」と解した話が作られています。
  • ホコ(矛)の原音はカツキであり、これがカツキ→ホツコ→ホコと転じる。頭にキツの音が乗り、キツ・カッキ(矛)がチム・ホツコ→チン・ホコと転じます。
    ヤチホコ(八千矛)とは、更にアツが乗り、アツ・キツ・カツキがヤツ・チム・ホツコ→ホコと転じた語。表面上の意味は「多くの矛」ですが、もじって「多妻者」をいう。“ 沢山のチン・ホコを持つ者 ” の意。(※神名人名・7「超優越」の項、参照。)

 

②「
大きい・多い・広い、などの意を基本とする音。とても(迚も)、はなはだ(甚だ)、といった副詞。また、全部、全て、などを表わす時にも使う。

  • 海を表すアツ・カッカ(広大な・面)はアカツカという語の他に、ィアツ・クァツタ→ヤツ・ファツタ(ヤハタ)とも表現します。※ヤツやハツタのツの音は省略音。
  • カマシイは、アツ・カマビスキ(とても・騒がし)という語が、ィアツ・カマスキ→ヤツ・カマスイ、と転じた音と思われます。
  • ヤツザキという語は「八つ裂き」と書きますが、元の語はアツ・サキ(全部裂く。粉々に切り裂く)というもので、決して数の八つではなかったでしょう。

 

③「長さの単位
長さの基本単位は、身近で分かり易くある程度の普遍性がなくてはなりません。そこで多くの場合、身体の部分が使われます。尺や寸といった日常で使う長さの単位は掌や拳を使います。

オツ:握った拳〔コブシ〕一つ分の幅。半分。予唸音・イが乗り、ィオツ→ヨツに転じる。◯長さとして半尺。

アツ:両手で握った時の拳幅二つ分(両手直列)をいう。アツの頭にイの音が付き、イアツ→ヤツの音になる。◯長さとして八寸=一尺。今の長さで、凡そ15~16cm。これが寸法を示す基本単位となります。

※現在は十寸で一尺ですが、当時は八寸で一尺だったと考えられます。大陸の国でいうと周と同じです。他に、九寸で一尺、という国もあります。
「十寸=一尺」が当たり前ではありません。

 

▽ちなみに「縄文尺
三内丸山遺跡には六本柱の巨大建造物があったという。その柱の間隔を測定すると全て同じであり、その長さはどれも32cmで割り切れるらしい。

そこから、縄文時代(少なくとも三内丸山集落)では、32cmが長さの基準だったのでは、という見解が出されています。

しかし、両拳を直列に合わせた幅がヤツカ(一尺)であり、凡そ15〜16cmと考えると、これが基本単位ではないでしょうか。すると、32cmはフタ・ヤツカ(二尺)になります。或いは、拳四個分で一尺としていたのでしょうか。

※上の文章で、とりあえず「尺・寸」の文字を使いましたが、漢字などは勿論、未だ存在すらしていない。かつて、この集落に暮らしていた人達が、シャクやスンといった言葉を使っていた訳では無いのは、言うまでもない事です。

 

*「ヤツ・ツカ
《神世記》
  須佐之男
  不知所 命之國而   命じた国を治めず
  八拳須 至于心前   ヤツカ髭、胸まで至るも
  啼伊佐知伎也     泣いてばかりいる
(※須の字は鬚〔ヒゲ〕と同じ)

《垂仁記》
  是御子
  八拳鬚 至于心前   ヤツカ髭、胸まで至るも
  眞事登波受      言葉が喋れず
※御子とは、本牟智和氣

*此処にある「八拳鬚(須) 至于心前」〈ヤツカ ヒゲ ムナサキ ニ イタリのヤツカとは、人の動作を考えると、両手で掴める程にまで伸びた長さ(ヤツ・ツカ=一尺)、また心臓がある胸の辺りまで、といった意と解するのが自然ですね。

「八拳鬚 至于心前」とは即ち、大人になって尚、長い時間が経過している、そんな状〔さま〕を表す当時の言い回しだったのでしょう。

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④「数の 4と8
手でモノを握るという動作は、親指と他の指たちで対象物を包むような格好になります。その際、親指以外の指が行儀良く並びます。

*片手の場合はヨツ(元はオツ)といいますが片手なので、少量、半分、途中、といった意味を持ちます。またこの時、並んだ指(親指を除く)の数が4本であるところから数の四もヨツと呼ぶようになります。

*両手で握った時はヤツ(元はアツ)という。意味は、大量、全部、完結、などを表します。この時、並んだ指が8(4+4)なので、ヤツは数の八を表わす語にもなります。

 

◇「ヤタ
八咫烏〔ヤタ カラス〕のヤタは、「多くの」の意で間違いないでしょう。戦闘集団(アツ・カラツキ)を表します。

八咫鏡〔ヤタ ノ カガミ〕のヤタは判断が難しいですね。ヤタが「規模」を意味するならばアツ鏡(大鏡)、「寸法」ならば直径八寸の鏡(一尺鏡)の意になります。

*只〔シ〕や寸の元の音はキであり、指を表わす時に使った。一寸とは指一本分の幅だったのでしょう。

「咫」の字は尺と只を一つにした形ですが、ヤタを表す文字として八咫を使っています。この表字を見て「咫はタと読む」とか、ヤツ・アタを元の音として「咫はアタと読む」などの説明を目にします。

実際には、アツがヤタと転じた意に咫の字を使うのですが、それでは音がアタかヤタかが分からない。そこでヤの音である事を示すべく、八の字を載せているに過ぎません。

よって、八咫の二字を以ってヤタと読むのであり、咫の字だけを取り出してどう読むかなどの詮索は意味が有りません。

 

 

◇「縵四縵矛四矛」と「縵八縵矛八矛
《垂仁記》
 又 天皇
   以三宅連等之祖 名多遲摩毛理
   遣常世國 令求登岐士玖能迦玖能木實
   故多遲摩毛理
   遂到其國 採其木實
   以縵八縵矛八矛 將來之間
   天皇既崩

 爾 多遲摩毛理
   分縵四縵矛四矛 獻于大后
   以縵四縵矛四矛 獻置天皇
   之御陵戸 而擎其木叫哭以

    ー〈以下、略〉ー

◯タジマモリは天皇の命を受け、トキジクの実と縵八縵矛八矛(沢山の縵、沢山の矛)を持ち帰った。ところが天皇は既に亡くなっていた。そこで、縵四縵矛四矛(持ち帰った縵や矛の半分)を大后に献上し、半分を天皇の墓に奉った。

 

四縵〔ヨツ・カヅラ〕
ここでのヨツ(イオツ)は全体の半分、二分の一、一対の片方、などの意です。

八縵〔ヤツ・カヅラ〕
沢山のカヅラ。ここでのヤツ(イアツ)は「多い」「大量」、また「全て」などの意味。

 

*ヤツは全部、ヨツは半分、というのが一般的な使い方でした。これらの音に八や四の漢数字を充てました。

量的なモノを表す場合、その言葉の音と同音の漢数字を充てることが多いです。あくまで同音であって同義ではあません。よって、字義は無視しなくてはならない。

字義は無視する、多くの人はこれが出来ない。だから例えば、八十〔ヤソ〕神を「80柱の神様」と言ったり、八百萬〔ヤヲヨロヅ〕の神を「日本には800万柱の神様が居るのです」などと吹聴する人が絶えない。

漢数字表記には気を付けないといけない。字義解釈は人を惑わす。

「数のこと」五と十

【ツツ考】[025]___
「五」「十」

◇「数の組合わせ」五組。
 [小:大]       (原音)
  一:二  ヒィ:フゥ(キツ:カツ)
  三:六  ミィ:ムィ(キィ:クィ)
  四:八  ヨォ:ヤァ(オツ:アツ)
  五:十  イツ:トヲ(キツ.ツツキ:キツ.ツツキ.ケル)
〈端数〉
  七:九  ナナ:ココ (ナナ・ツミ:クク・ツキ)

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◇「」と「10」の音
これらを表す音の作られ方は「ツツ」が基本にあります。ツツとは連続や移動を表わす意を持つ語です。

この音「ツツ」に頭辞や尾辞が付き、また転音してイツツ(五)、トヲ(十)、という言葉になって使われます。

五:キツ・ツツキ→イツ・ツツキ→イツツ。
十:キツ・ツツキ・ケリ→ツツ→トヲ。
※ケルやケリは完了を表す語。

元は少々長めの語なので、音を簡略化した上で、且つ明確に分けるため、五は「イツ」といい、十は「ツツ」(また、トフォ、トヲ)といった音に移っていきます。


*「〔イツ〕
指を順次移っていくのをキツ・ツツキ(移動)といいますが、ここでのキツは指の意でしょう。
※「ユビ」という音は、キツ→イブ→イウ ビ(ユビ)と転じた言葉です。指宿はイブスキと読み、古い発音が今も残っています。棒状のモノは概して「キ」の音で表します。

①イツ・ツツキは、イ・タタリ→イタリ、また、イツツリ→イタレリ、という語になる。イタリ(至)とは終着ではないが、一つの到着点を意味する語です。

②イツ・ツツキが略されて「イツツ」(ただ、イ・ツツなのか、イツ・ツなのか、これに付いては悩ましい所)、また「イツ」という音になる。片手の指の数が5本であるところから、イツツの音は数の五を表わす言葉としても使われる様になる。

 

*「〔ツツ〕
 イツ・ツツキ(指の移り)のままだと五と同じになるが、両手に及んで完了した場合、後ろに「ケリ」(またケル、ヘリ、セリなど)の音を付け、イ・ツツキ・ケリという語になる。ただし、イツツ(五)との混同を避けるため、頭のイを省きツツキ・ケリとします。

① ツツキ・ケリは、ツツキがツキと短縮し、ツキ・ケリ(尽きる)になる。また、ツキ・ケル→ツイヘルやツイヱル(終ゑる)の音で、終了、最後、結末、などを意味する言葉になります。
 ※ツツキ(移動)にケリを着ける、という事ですかね。

 ツツキ・ケリ →ツキ・ケリ →ツイヱリ
        (尽きけり) (終へり)

よって、尽〔ツキ〕と終〔ツイ〕は同根の語と言えます。

 

② 終了などの意味とは別に、両手の指の数から十を表わす語にもなり、これを表す音として、日常的には後ろの音を省略した「ツツ」のみで長らく使われていたようです。その後、音便でトォが多く使われるようになっていきます。

 

◇「至れり尽くせり
イツツキは途中の到着点をいい、ツツキ・ケリは終着点を表わす言葉です。

 イツツキがイタタリ(至)→イタレリ、
 ツツキ・ケリがツキ・ケリ(尽)→ツキセリ、

と発音されて「イタレリ・ツキセリ(至れり尽くせり)」という言い方が生まれる。始まって、途中経過から最後まで完全な状態が続く様子を表わす。(ツセリを今はツセリと発音します)

一般的には「配慮が隅々まで行き渡ること」といった意味で使われますが、意図するところは間違っていないとはいえ、これが本来の意味かというと少し違う。

イツツキ・ツツキケルとは、例えば「乗り換え駅に至り、終点駅に着き(尽き)ける。」という使い方でしょうか。指を順番に移ってゆく動作で言えば「片手(五)に至り、両手(十)で尽きける(終わる)」ということになります。

 

▽ちなみに
十進法は人間の指が10本であるところから作られたものでしょうね。しかし、これが宇宙の真理かと言えば疑問です。

他の惑星に住む生命体が十進数を使っているとは限りません。仮に彼らの片手の指の数が7本なら、14で桁上がり、という形になっているでしょう。

人類には、他に「四分の一」という発想もあり、時を測る場合、12や60といった記数法を用います。また、コンピューターは二進法で作られています。

私たちは、たまたま十進法をメインに使っているに過ぎません。とはいえ二気五行の様に、5という素数に裏表〔ウラ・オモテ〕がある、という発想は少々魅力的ではあります。

 

*十という数の外にも、我々の文化を見る時、皆が大好き「八」という数に付いても考える必要があるでしょう。

 

「カヤ・ツツヌキ」

【ツツ考】[024]___

◇「重力

 この世の初めは、ただ何もかもが乱雑に撹拌された濁った空間だけが存在していました。上も下も無く、光も無く、まるで固まっているのかとさえ思えるような、或いはスチール写真を見るような、一切のものが微動だにしない、完全に停止した世界でした。

ここに或る時、重力というモノが発生し始めます。今風に言えば “ヒッグス粒子の誕生”という所でしょうか。

「重さ」を持った物質は、それが如何に微細なモノであっても、或る方向にゆっくりと静かに移動を始める。この向かう先を「下」といいます。これにより、この空間に初めて上・下というものが作られました。

 

 

◇「ツツの正体

 悠久の時が流れ、降下したモノはすっかり底に溜まり、何処までも続く平らな広い海面(アカ)を作っています。一方、上は全く何も無い澄み切った高い空間(アキ)が際限なく広がっていました。

こうして作られた空と海の間には常に風が吹き、月は海に干満を作り、それによって生じた潮流は永遠に動き続けることとなります。この“動・エネルギー”をツツといいます。

また、様々な自然現象もツツの仕業ですが、それが人々に不幸をもたらす場合、これを自然災害と呼びます。

これら自然界に存在するあらゆるツツ(動き)は全て重力に起因するものです。

つまり、重力こそがツツの正体なのです。それは即ち、竜の正体でありドラゴンの正体です。そして、荒振るツツヌキの大神、カツ・ツツヌキ…いや、ハヤ・スサノヲ(速須佐之男)の正体です。

 

 

「ツツノキ」凄力

【ツツ考】[023]___

◇「エネルギー
 誰の意思によって動いているのか、なぜ動いているのか。日常の生活の中で、余りにもありふれているにも関わらず、誰も知らない。

  • 生命の活動:心臓の鼓動、湧き出る意識。草木の発芽と成長、その盛衰。
  • 自然界活動:繰り返される日と月の動き、風雨、潮流、季節の移ろい。炎〔ホノオ〕なるもの。

これらを太古の人は「ツツ・ヌキ(動きを司るモノ)」の仕業と考えたのでしょう。そして、実体の無いモノに、その姿を創作し可視化する事を、人類はずっと行なってきました。

 

◇「スサノヲ
 最大級のツツ・ヌキを表わす音がスサノヲです。ツツ→スサ、(ツキ→)ヌキ→ノヲと移ります。この呼称は色々な意味を持っています。

古事記日本書紀に、スサノヲという名が登場すると、その場面や状況が違っても、全てを同じ神として扱い、繋げて物語を作ってしまう。だから話が混乱するのです。それぞれ別の働き、異なる存在として捉える必要があります。

  1. 水流」筒之男ツツノヲ伊邪那岐が禊をした時、水の動き(潮流、川の流れ)から生まれたスサノヲ。
  2. 自然界エネルギー」轟きトドロキ。あらゆる自然災害(台風、地震津波など)。高天原で狼藉をはたらくスサノヲ。
  3. 武人」経津主フツヌシ。筒之男ツツノヲ。ヲロチを退治した勇猛で強い戦士のスサノヲ。
  4. 首領」皇スメラキ。須世理比賣の父としてのスサノヲ。ツツヌキ・カツキ→ツブラミ・コツト→スメラミ・コト、と音が移る。

 

*小さな水の流れをセセラキといい、池や湖の岸に寄せる細かな波をササナミという。海岸に打ち寄せる波はツツナミといい、水位の上昇により押し寄せる水はオホ・ツツナミ(大津波)です。これらは全てツツ・ヌキが元の音であり、意味は「動く水」を表わします。

伊邪那岐が禊をした際、左目から天照大御神が、右目から月讀命が生まれる。鼻を洗〔スス〕いだ時に須佐之男命が成った。記紀ではそう言います。

確かに、天照大御神と月讀命は、伊邪那岐の眼から生まれたのでしょう。しかし、須佐之男はちょっと違う。

須佐之男伊邪那岐の身から成ったのではなく、禊をするその“水の流れ”に成ったキ(神)=ツツ・ヌ・キなのです。海や川の水を動かすエネルギーであり、微小だが鼻水もまたこれに含まれます。

 

*或いは、この流動神も伊邪那岐によって出現したものか。そういえば、伊邪那岐はかつて海に矛を差し下し掻き混ぜた事がありました。

この時の副産物として潮流というものが生じてしまったとすれば、その神である須佐之男は、紛れも無く伊邪那岐が造り出した子といえます。

また、矛の刺激によって生まれた事により、激しい戦闘員・ツツノヲ(筒之男、経津主)にもなっていく。
・・・話としては面白いでしょ。話としてはね。

本当は、潮流と戦闘員は別の神。
禊で成ったのは「水流」を意味するツツヌキ。
戦うのは「武人」を表わすツツヌキです。

この二つは違うツツヌキなんですがゴッチャになって、例えば、住吉大社などは海に関する神を祀る社だっのが、何時の間にやら戦いの神としても扱われます。

昔(古代)の人も、本当のところは判らないんだと思う。ただ、ハッキリしてるのは、両方ともツツヌキと呼ばれる、ということです。

 

◇自然界には様々なツツ(運動)エネルギーがあります。不安定な状況があれば、安定状態にする現象は至る所で発生します。これは単なる自然の営みに過ぎないですね。この時、人に害が及ぶと災害と呼ばれます。

地震、台風、山崩れ、火山噴火など、このような人智を超えた自然界の “戯〔タワムレ〕” は超最大のツツです。このエネルギーは何モノによって生み出され、制御されているのか。

人々にとって自然現象に依る猛威そのモノとは別に、それらを作り出す「自然エネルギーの源」を司る存在(神)が脅威の的でした。この親玉的存在をカツ・ツツヌキといい、転じてハヤ・スサノヲ(速・須佐之男)と呼びます。

記紀では災いの神として、スサノヲを「神夜良比 夜良比岐 カムヤラヒ ヤラヒキ」する場面があります。これは大災害を経験した人達の“切なる願い”(邪悪な神の追放)から作られた話でしょう。

 

◇「竜神
 人の心の内に作られた想像上の霊獣としてのツツヌキの音には、竜ヌ神(ツツ・ノ・キ)という字も充てます。漢音のリュウジンも、ツツ→ルウ→リュウ、キ→キン→チン→ヂン、と音転するのだから元はツツヌキです。(※「竜」と「流」は音も同じ、意も同義)

 

*ある時、水晶玉を用いる占い師が、おさまり澄ました知たり顔で「水晶は水の結晶です。」と言ったのに対し、傍らで聞いていた人が間髪を入れず「水の結晶は氷だよ。」と簡単に粉砕されていた。

この占い師と同類の人種が、これまた得意顔で「竜は水の神です。」などと言い放つ。竜(龍)の訓読みのタツも、音読みのリュウ(ルウ、ロン)も、ツツからの転化音です。

ツツとは「動き」を表わす語であり、水の意などカケラもない。水神は罔象(ミツハ=元の音はキツ・カ)である。また蛟(ミヅチ=元の音はキツ・キ)とも云う。

ミヅチを竜の子の一種とするが、ミヅチ自体は水を指し、これが動いて初めてツツ・ミヅチとなって竜蛟と表記されるのです。動かない水溜りを竜〔ツツ〕とは云わない。

◎竜は、流動の神であって、水の神ではない。

 

◇「ドラゴン
 ツツルキ→トトルコ→トルコ→ドラゴン、と転じる。中世の西洋ではこれと戦う騎士が英雄とされた。ドン・キホーテが風車と闘おうとした話があり、愚か者の象徴のようになっていますが、風という自然エネルギーもまたツツヌキです。

彼の行動はこの件に関して、何ら間違っていない。また、彼はこの風力活用建造物をドラゴンと見立てて闘いの気持ちを高めたのかも知れない。
奈何せん、全てが妄想だったことが問題であっただけです。

 

「ツツ・ツツ」重連

【ツツ考】[022]___

◇「重連
 日本語には、ツツを二つ重ねて「ツツ・ツツ」という音表現があります。動きの継続や繰り返し、また動きの滑らか度合いや、その状〔さま〕などを表わす時に使われます。

ツはタ行の他の音や、サ行音などに転化しますが、同じ音を四つも続けるのは、流石〔さすが〕に発音しづらい。そこで、ツツの後ろのツが色々な音に転化します。

例えば、ラ行音になれば、ツルツル、スルスル、またタラタラ、サラサラ。クの音になると、ツクツク、スクスク、またトコトコといった表現になります。

*スクスクは「子供がすくすくと育つ」のように、無事な成長の意に使いますね。広義には、物ごとが滞り無く運ぶ状態を表わします。
《応神記》の歌に次の一節があります。

  志那陀由布 佐佐那美遲袁
  須久須久登 和賀伊麻勢婆夜

  しなだゆふ ささなみ道〔ぢ〕を
  スクスクと 我がいませばや…

ここでのスクスクは、順調に歩を進める状をいい、或る種の軽快感を持たせています。今の言葉でいうテクテクは、歩く行為自体を表わすので、ちょつと違うかもしれない。

 

*パソコンを扱う人達の間では「サクサク」という言葉がすっかり定着していますよね。音としては昔から有りますが、使い方としては新概念の語です。

仮に、この音を応神天皇が聞いたとしても、ニュアンスはある程度、通じるでのではないでしょうか。考えてみたら、これ、ちょっと凄い。千七百年の時を隔てて言葉が通じるなんて、そんな国が有るでしょうか?

 

話を戻します。


 ツツ・ツツが、ツル・ツルや、ツク・ツクなどと、後ろのツが他の音に変わるのは、その方が“発声し易い”という、いたって単純な理由からです。

結果として、ツツ・ツツの音種バリエーション自体が増え、色々な特徴、状況、感覚、といったものを表わすのに便利、という副産物ができました。

 

 

◇「誘い〔イザナ・い〕」
 他人に対して何らかの行為を、促〔うなが〕す、勧める、誘う、招く、導く、といった事をする時、使う言葉として「サァ、サァ」というのが有ります。「サァサァ、お入り下さい」などと使います。

この「サァサァ」は、ツツ・ツツ→ササ・ササ→サァ・サァ、と転じた音でしょう。短く「サ・サ」と云う場合も一つの「ササ」ではなく「サァ・サァ」の短縮系で「サ・サ」です。

これに勢い付けの始発音ンが付き「サ・サ」、更にンが母音(ここではイ)になり「イサ・サ」という語も使われます。また、サが一個になって「イザ」にもなる。「イザ、尋常に勝負!」などのイザです。
ここでのイザは、物事を始める時の掛け声、また合図としての役割りにもなっています。

 

*「イザ」という語は「何々するぞ!」また「何々しましょう」という時の、呼び掛けの言葉です。当然、後ろに何らかの言葉が続いています。「イザ、何々、する」というのが定型だった。

地域の言葉に「〜してクダサイ」を、「〜しんサイ」「〜してクンナイ」また、「来てくだサイ」が「来てくんサイ」「来んナイ」、また「食べてね」が「食べてくんサイ」「食べナイ」などのサイやナイの表現音がありますね。

「誘い〔イザナ・イ〕」とは「イササ(何々)ナイ」という言葉の“何々”の部分を省いて、イサ・ナイ、になったと思われます。
「イササ・ササ、何々、しましょう」が「さぁ、しましょう」になる。これが「イザ・ナイ」の元にある音でしょう。

 

 

▽ちなみに。
「誘」の読みはイザナイとサソイの二つがあります。この違いは何か、に付いて。
※この語は、イザナウやサソウといった動詞では無いということを、先ず知っておく必要が有ります。

*「さそい」ツツ・ツキのツツがササに変わり、キがイになります。ササ・ツイ→サ・ソイ、と転じて出来た語です。
  ツツ・ツツ・ツキ
   サ サ  ・スイ
    サ   ・ソイ

*「いざない」元の音がツツ・ツキであるのは同じです。ツツの頭に予唸音ンが付きンツツ。ンが母音イに、ツツがササに転ずることでイササという音になります。ツキがヌイ→ナイと移り、ツツ・ツキ→イササ・ナイの音になる。
     ンツツ・ツキ
 ウスス・ヌキ
 イササ・ヌイ
 イ  サ  ・ナイ

元の音はどちらも同じですが、シンプルなのが「サ・ソイ」、ボリュームを持たせたのが「イザ・ナイ」という、ただ、それだけの事です。

 

 

*「伊邪那岐〔イサナキ〕
イサナキの名は「誘〔いざな〕い」という語からきているという説があります。

 オノゴロ島に降り立った二神は、降りるのに使ったスペースチューブを天之御柱に見立て、その前に並んで立つ。そして、作法通り「陽神左旋、陰神右旋」男神は左回り、女神は右回り〉でスタートします。柱のちょうど反対側で出会ったところで、お互いに声を掛け合う、という儀式に於ける一所作があります。

この記述の、声掛け〔コエ・カけ〕行為を「イザナイ(誘い)合った」と解釈をし、ここから男神をイザ・ノキ、女神をイザ・ノミ、といい、これが名になった、という説。

 

*生命体を表わす語をキツキといいます。先のキが膨らんでキッツキ、さらに、→キサヌキ→イサナキ、と転じてこの呼称が出来る。

  • 誘い〔イザナ・い〕]ンササ・ササ・ツキ→イササ・ヌイ→イザ・ナイ。サはザ(濁音)になります。
  • 伊邪那岐〔イサナキ〕]キツキ→キッツキ→キスヌキ→キサヌキ→イサナキ。邪〔ザ〕はサ(清音)だったと思われます。

◎よって、この二つの語は、音も、意味も、成り立ちも全く違うので、別の語になります。

 

 

◇日本語には「ツツ・ツツ」から転化してできた言葉が異常なほど多い。その意味や役割りも多岐に渡り、ここに示したのはほんの一部でしかありません。挙げればキリが無い。

現代では擬音として扱われるツルツル、サラサラなどの表現音の始まりは、ツツという歴とした単語であったことが分かります。

 

「ツツ・マキ」芝居

【ツツ考】[021]___

◇「芝居

 ツツは「続ける」「連続」、マキ(マイ)は「回転の状」また「行為」。この二つの語を合わせた「ツツ・マキ」という言葉は、一定の場所で「動き続ける・行為」の状〔サマ〕をいいます。
ツツは、→スス→シシと移り、マキは、→マイ→バイと転じて「シシバイ」という音になりました。

◎ツツ・マキ→シシバイ→シバイ。

後年、このシバイの音に「芝居」という文字を用いますが、もちろん全くの充て字であり、字義によって出来た言葉ではありません。

 

*芝居〔シバイ〕の語源について、辞書類は一様に「庶民が芝に居て(座って)演物〔だしもの〕を観てたから」と説明します。

⚫︎猿楽・曲舞・田楽などで、桟敷席と舞台との間の芝生に設けた庶民の見物席。《広辞苑

⚫︎猿楽の興行の際、舞台と貴人の席との間の芝生に庶民の見物席が設けられていたことに由来する。《大辞林

⚫︎猿楽等の芸能を寺社の境内で行った際、観客は芝生に座って鑑賞していたことから、見物席や観客を指して芝居と呼んだ。《Wikipedia

 これらの辞書の内容は「芝居」という漢字の意味をせっせと説明し、これがシバイの語源であるとしています。

 

*或る言葉の意味を探ろうとする時、それに使われる漢字の字義に答えを求め、殆んど無思考状態で反射的に跳び付いてしてしまう典型です。(音が先なんですけど…。)

 

◇古い時代、シバイとは娯楽演劇の事ではなく、五穀豊穣や子孫繁栄を願って、また悪霊退散などを行う “見立て踊り” というものでした。

興行といったものでは無く、集落内で行われる祭事の催し物の一つとしてです。それは猿楽などが生まれる遥か昔からの事だったでしょう。

更に云うと、シバイとは演者の行為(演技)そのものを指しますよね。昔は違ったのでしょうか? そんな事は有りません。これは昔も今も変わらないでしょう。では何故そこに、客席が出てくるのでしょうか。

「シバイ観る」ではなく「シバイ観る」が正しい表現とすならば、花見もシバイと呼んでいい? 打ち上げ花火もシバイになりますか? 昔は皆、芝に座って見てましたよね。

客席由来が、一つの説として扱われるのであれば別段問題は有りません。しかし、全て(確認した訳ではありませんが)の辞書で “動かぬ定説” と言わんばかりの統一見解は、如何なものでしょうか。

 

*自然界を司る「目には見えない大きな力(カツキ)」を、人々はカムヂ、またカミと呼びました。実際には見えないけれど、視覚化させるべく、衣装を纏い面を着けた非現実的なモノを作ります。

これをカミと見立て、時には荘厳に、時には滑稽に、福を招き邪気を祓う、そんな願いを持って動作を繰り返します。このカミ(演者)の振る舞い行動を、ツツ・マキ、つまりシバイと呼びます。

 

 

◇「接頭辞

 日本語の表現方法の一つとして、状態や行動を表わす語を一音で表わし、これを別の単語の頭に置き全体として一単語を成す、といった形があります。

例えば、「居る」という語を「イ」の一音とし、スワリ・イる→イ・スワリ(居座り)という言葉になります。他にも、イ・ナラビ(居並び)、イ・ノコリ(居残り)など同様の表現は多くあります。

また、「見る」は「ミ」の音で、ミ・スエル(見据える)、ミ・カエシ(見返し)、ミ・アヤマリ(見誤り)など。

 

「作業」を「シ」の一音とし、コトを・する→シ・コト(仕事)、ナオシを・する→シ・ナオシ(仕直し)、報復を・する→シ・カエシ(仕返し)、使い終えた巻物は綺麗に巻き戻しておく→シ・マキ(終〔シマ〕い)など。

この一つに、マイを・する→シ・マイ(芝居〔しばい〕」という語もあります。 ※このマイ(マキ)は舞ではなく「行為」全般を指す。

ここで使う「シ」の音は勿論、ツツ→シシ→シと転じたものです。原意は行為をいう「シシ」であり、原音は「動き」や「連続」などを表わす音「ツツ」です。

 

 

◇「獅子舞」「龍舞

 ツツ・マキ→シシ・マイ(獅子舞)と転じる。これもまた演舞の一つです。この充て字表記から、正月などに獅子頭〔しし・かしら〕を被った吉祥舞踊の形で行われるようになったのでしょう。

龍舞もまたツツ・マイです。龍の音読みリュウも、訓読みタツも、ツツが原音であり是の音から始まった経緯は獅子舞と同じと見ていい。

*中国では、獅子舞を舞獅〔ウーシー〕、龍舞を舞龍〔ウーロン〕と書きます。日本とは漢字の並びが逆です。ツツ・マイが原音とした場合、中国の書き方(漢族仕様)は成り立たちません。

獅子舞も、龍舞も、大陸の国が発祥とされます。しかし、それは漢民族の風習では無く、彼の地の「先住民」の文化であり、彼らの使っていた言葉(支那語)では、舞獅ではなく獅舞であり、舞龍ではなく龍舞であったでしょう。

これは、古い支那語が後〔のち〕の中国語ではない事を意味します。

 

 

◇「相撲
 ツツ・マキ→スス・マイ→スマイ(スマウ)と転じた語と思われます。ここのマイは音便によってモウとなる。「舞〔マ〕いて」がモウて、「まいでる(詣る)」がモウデる、に変わるのと同じです。

スモウという語音について、一般的な説明では「争う」の古語がスモウ(スマウ)だったとします。ただ、スモウの音に争の字を充てる事はあっても、争の字にスモウの音は有りません。

或る一定の場所で、武器を持たない二人の男が動き回って闘うこと、これをツツ・マイと云ったのではないでしょうか。
また、チョチョマイ(狼狽〔うろた〕えてバタバタすること)といった言葉も、音としては同源(ツツ→ ツォツォ →チォチォ)に違いありません。

 

*「竜巻
 風が一つの場所で激しく回り、天まで伸びる竜巻は、アツ・ツツ・マキのツツがタツになって、ウズ・タツ・マキとなった、というのが元の音でしょう。
※このウズ(正しくはウヅ)は渦ではなくアツ=大の意。宇受柱(大柱)の宇受〔ウジュ〕、宇豆毘古(大毘古)の宇豆、などと同じ。

アツ・ツツ・マキが後に短縮され、ウヅ・マキになり、さらにウヅ(渦=回転運動、螺旋形状)という意味の言葉になったと思われます。

 

*全て「ツツ」という言葉から成っており、この語の存在と、その意味を知らなければ、見えてこない言葉たちです。