「ツツ・キ」禊

【ツツ考】[010]___
3-2.液体の流れ 「キツ・スス・キ」

◇「
伊邪那岐が黄泉国から戻ってきた時、云う。
「故吾者 爲御身之禊」〈故に吾は、御身これ禊を為さむ〉

*また、大穴牟遅が稲羽の裸菟に云う。
「今急往此水門 以水洗汝身」〈今すぐ此〔ソコ〕の川口〔カワクチ〕に往き、汝の身、真水を以って洗〔ススギ〕なせ〉

「以水洗、汝身」を「汝身、以水洗」と文字を置き換えれば、「御身、之禊」と良く似た表記になる。

 御〔ア〕が身を、之〔コレ〕、禊〔ミヅ・ソソギ〕
 汝〔ナ〕の身を、以って、水洗〔ミヅ・ススギ〕

御身〔アがミ〕、汝身〔ナのミ〕、この違いだけである。水洗はミヅ・ススギ、禊はミツ・ソソギ。音は少し違いますが、基本的な意味は同じです。
※「御」の使い方については別稿で示す。

 

◇神社の拝殿に参拝する前には手水舎で身を清めるが、柄杓の水を落下させて手を濯ぐのは略式のミソギです。

食器洗いや衣類の洗濯も、ススギは綺麗な水を流し乍ら行なうものです。溜り水で行うのをミソギとは言わない。

◉ミソギとは「流れる清い真水」で行なう事を意味する言葉であり、必ず此れを前提とする。

 

▽ちなみに。
 身に付いた穢れを削ぎ落とすので、ミソギは「身削ぎ」である、という解釈が一部にあります。ミソギのミは水であって身では有りません。「削ぎ〈ソぎ〉」とは、道具を使って削ることをいい、水で洗う事とは行為自体が違います。
※「削ぎ」:表面に付いてる物や、表面自体を何らかの道具を使って薄くこそぎ取る(また、削り取る)こと。

 

「ツツ・ヌ・キ」血

【ツツ考】[009]___
3-1.液体の流れ 「ツツ・ヌ・キ」

◇「流れる血
 伊邪那岐命迦具土神を斬る。その時、使った剣・切った頸・刃を伝い流れる血。これを《記》では次のように書く。

①   於是伊邪那岐命
    拔所御佩 之十拳劒
  斬 其子迦具土神 之頸
    爾著其御刀 之血

    是に伊邪那岐命
     御(身)に佩〔ハ〕きし これ十拳劒を拔き
   斬 其の子、迦具土神 これ頸〔ネツキ〕
     其の御刀の前〔サキ〕に著きし これ血

 

また、ここでは斬の文字を棚に置く“三行棚字”になっているので、この後に続いて書かれる②「次著其御刀之血」、③「次集刀之手上血」の二つの語句それぞれの前の位置にも、「拔所御佩 之十拳劒」「斬 其子迦具土神 之頸」の二行を同じ場所に置くべきですが、重複を避けて省略している。

② 次 伊邪那岐命
    拔所御佩 之十拳劒
  斬 其子迦具土神 之頸
    著其御刀 之血

③ 次 伊邪那岐命
    拔所御佩 之十拳劒
  斬 其子迦具土神 之頸
    集御刀 之手上
※この末行の本来は「爾集御刀手上 之血」だろう

 

 

◇頸を斬るのに使った十拳劒、その刃先、刃元、柄〔ツカ〕、に流れ滴る血のそれぞれに神が宿る。

湯津石村〔ユツ・ィハムラ〕は刀身を言うのだろう。だから①と②だけに置かれる。③は柄なので記さない。(※ユツ・ハムラの原音は、キツ・カツラでしょう。)

①"  (爾著其御刀前 之血)
    走就湯津石村 所成神
    名、石拆神
    次 根拆神
    次 石筒之男神 三神

②"  (次 著御刀 本血) ※著其御刀本 之血
    亦走就湯津石村 所成神
    名、甕速日神
    次 樋速日神
    次 建御雷之男神
      亦名建布都神
      亦名豐布都神 三神

③"  (次 集御刀 之手上血) ※集御刀手上 之血
   自手俣漏出 所成神
    名、闇淤加美神
    次 闇御津羽神

 

*「十拳劒・石拆神」石拆は、イハサキ。
キツ・カツキが、イツ・ハツキ→イ・ハサキ、と転じて石拆の字を充てる。
」の字はイシとイハ(イワ)のどちらの音にも使うが、ここはイハ(イワ)である。
」の字はサキ(裂、割)の音に充てる。
◯キツ・カツキは、別の転音ではイ・カヅチ(雷)になる。
〈注:発音として、ハはファ、ワはウァ。〉

 

*「頸・根拆神」根拆は、ネサキ。
頸の古和語をネツキというが、ネサキと転じた音に根拆の字を充てる。頸(ネ)を斬り裂いたことに依る。

 

*「血・石筒之男神」キツ・ツツ・ノ・ヲ。
ここでは、ツツ・ヌ・キの音が〈流・之・血〉と〈戦・之・男〉の両方を担っています。

住吉神社が祀る海神(底・中・表の筒男命=潮流)を武神として扱かうのも、同じ理由からです。またツツ・ヌ・キは、ツツルギ→ツルギと移る剣の原音でもあります。
*刃の、前〔サキ〕の血/刃先。
    本の血/手元近く。
    手上の血/柄の手を濡らす。

これらは剣を、先の刃、手元寄りの刃、握る柄の三つに分けて、それぞれ流れる血(ツツ・ヌ・チ)に成る神をいいます。

*筒之男だけならツツノヲだが、石の字が乗っているので、キツ・ツツヌキ→イシ・ツツノヲ、と転じた音に、石筒之男を充てる。ここでの石の字はイシ(キツからの転)の音に使う。

 

「ツツマ」天満

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【ツツ考】[008]___

◇「天満
《仁徳紀》號其水曰堀江

 堀江を作る際に出た掘削土は、高津宮の西(大阪湾側)にも敷かれたでしょう。その平地はツツカといい、転じてセンバと呼ばれます。そして、以降それぞれの時代で千波、洗場、そして舟場、などの字が充てられる事になります。

堀江の北側にも土を広く敷き詰めたでしょう。その地をツツマといい、この音がツンマ、そしてテンマと転音して天満の字を充てる。

「何を言ってる? 天満宮があるから天満だろ。」

違うと思う。テンマ(ツツマ)に有るから天満宮だと思われます。京都の北野天満宮だって川縁〔かわべり〕の未開地(キツノ)に、土を敷き詰めて出来た地(ツツマ)に造られています。

北方面にあった土地なので、キツノの音に北野の字を充てます。地名が先です。

天満の名の由来って知ってます? 「菅原道真の怨霊が雷神となって天に満ちたから」なんて言われてます。そんな地名由来を信じるんですか? そもそも、テンマの地名は道真が生まれるより、ずっと昔から有ったでしょう。

 

*堀江の、北と南のツツカ(またツツマ)に対し、音に違いを持たせて呼び分けが為された(センバとテンマ)と考えられますが、意図的というよりも自然に音分けが進んだと言う事でしょう。

 

◇堀江の北は埋葬地でもあったことにより社が作られ、これを天満の社と呼んだ。
初期の頃はおもに埋葬業務に携わる役目を担ったと思われますが、或いは堀江や神社が出来るよりずっと昔から、岐神(フナトのカミ/海の守り神)が置かれていたのかも知れない。

*岐神とは、邪悪な神の侵入を防ぐ強い神、キツ・ツキ(岐〔キ〕ツ・神〔キ〕)から始まる。キツが、→キヌ→クナと移る。クがフに転じ、フナ・トキの音に変わったのち「船・渡御」の字を充てた。

 

◇「天神
 時代が下って、何故か菅原道真を祀るようになり、すっかり学問の神を祭る社に変貌してしまいました。何故、道真が主祭神なのか。社〔ヤシロ〕の歴史は道真より古い筈なのに。

天満宮の傍には必ず川が流れている。京都の北野天満宮の西には天神川がある。道真は天神と呼ばれる。どう関係してるのか。

神社によっては、時世の変化に合わせて祭る神を新たに加えたり、合祀される神の扱いを変えることは珍しくなく、結構いい加減です。それにしても、天満宮主祭神が入れ替ってしまったようです。

古代から「岐神・塞神〈フナトのカミ・サエのカミ〉」を祀る風習はあった。それに「菅原道真・天神」が合体し、「天神祭り」となっていったのでしょう。

人口の増加は町を裕福にします。それに伴い祭りも盛大に催されるようになる。長い歴史を経た天満宮は、すっかり土地に根を張り、町衆からは親しみを込めて “ 天神さん ” と呼ばれています。

 

上町台地の北にある低地は、かつて千里丘陵と繋がっていた名残りですが、同時に川が運んできた土砂の堆積によって出来た土地でもあります。

その中で天満の辺りは比較的高い地形であることが衛星解析写真によって見て取れます。これは堀江の掘削によって出た土が、大量に乗っているからではないか。

また、神社周辺は早くから木々が茂る森になっていた(天神の森と呼ばれる)ようで、これも浸水の無い高い土地であったことによるものでしょう。

 

◇舟場(千波)は難波大坂の中心地ですが、天満地域にも多くの人が住み、「天満千波地子五千石」と云われ、慶長十四年(一六〇九)の頃の人口が、両地合わせて少なくとも二十万人は暮らしていただろうと推測されています。

 

▽ちなみに「扇町
 大阪天満宮(天神の森)の北には低地が広がっており、その一角に扇町と呼ばれる地がある。この地名の元は、二つのことが考えられます。

*ツツマ・チ→センマ・チ→扇町→オオギマチ。
◯ツツがセンに転じた音に扇の字を充てるが、後に訓読みオオギになる。

※センマ・チの音に扇町を充てるのは重箱読みになる。ただ、洗場、舟場、なども同様であり表記としては何ら特殊ではなく、むしろ普通のことです。

*アハキ・マ→オホキマ・チ。
◯地続きの堆積広間をアハキ・カラツマ・チという。この音の略され方は色々あって、アハキ・ハラ、アキ・マ、オホギ・マ・チなどになる。このオホギに扇、マ・チに町が充てられる。

※そもそもマチ(町)という語が、カツマ・チ、カヤマ・チ、タギマ・チ、といった「マのチ」から出来ている。
 

或いは、これ以外の理由(例えば、扇作りが盛んだったから、とか)があるかも知れないが、今のところその痕跡は見つけられない。

 

堀江

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【ツツ考】[007]___
⒉ 空間「ツツカ」

◇「堀江
《仁徳紀》
 十一年冬十月。掘宮北之郊原、引南水以入西海。
 
因以號其水曰堀江。

宮の北の郊〔はずれ〕の原を掘り、南の水(大和河)を引き以て西の海(大阪湾)に入れり。因りて其の水(河)を以て名付けて曰く、堀江。

 

南の水を西の海に通す工事とし、この水(川)を名付けて曰く「堀江」と記している。(大和川の水を大阪湾に流す水害抑制の為のバイパス運河と思われる)
※現・大川と推定されていますが、間違い無いでしょう。運河と書きましたが、大阪湾と難波津の入江を繋ぐ形なので、小さいですが人工的“海峡”と言った方が正確かも知れません。

堀った幅はそれほど広くはなかったように思われます。せいぜい曳船がすれ違える程度でよかった。あとは水流が両岸の土を、勝手に削っていってくれる。しかし長さは2km程度あったでしょう。結構な距離です。(現・大阪城北詰あたりから、その頃の海岸線だった淀屋橋あたりまでとした場合)

当然、大量の土が出た筈ですが、これをどう処理したのだろうか。堀江の周辺の低地に、敷いたであろう事は容易に想像がつきます。

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◇かつて(五千年以上前)此処ナニワに有った入江は、東の生駒山、西の難波崎、南は八尾・平野の地、北は三島の入江に至る広い内海でした。

ところが、4〜5世紀の頃には大和川が運んでくる土砂により、水地南部が既に広い扇状地になっており、その平地に幾本にも分かれた細い川が北に向かって蛇行する、そんな環境になっていた。

 

◇また、大和川と淀川の水が両方からやってきて、ぶつかる辺りは更に土が堆積し易く、入江を南北に分ける様な土地が出来ていた。この陸地はカツマといい、転じてカドマと呼ばれたようです。

初期の頃は、入江に出っ張った角地のようであったことから、カドマの音に角間の様な字を充てたのかも知れません。今の表字は門真になってます。

この陸地の西の先端は徐々に延び、難波崎の側〔ソバ〕まで達し、その辺りはカツマ・チ(現・片町)と言われます。これによって南の水の出口が狭まくなり、雨量が多いと捌ききれなくなった水が、川淵の民の田畑を浸す。

水路の新設が求められた。ルートは。規模は。日数は。費用は。人は。時期は。役人が集まって、色々考えたでしょう。どうしたものか。無理かも。でも、何とかしないと。そして…。
「よし、十月から作業を始めよう」
鶴の一声だった。

 

◇《書紀》の、先の文章(堀江、云々)に続けて、次の記述もあります。
  又、將防北河之澇、以築茨田堤。
 是時、有兩處之築而、乃壞之難塞。

[澇]イタツキ。ここでは、大雨による浸水、の意。「イタんだ・ツキ(傷み・の地)」が原音(原意)でしょうか。[築]ツキ。元はツツキ。土を集めて作った盛山。[堤]人工堤。堤防。

ここにある「北河」に返り点を付け“河の北”と読み、大和川の河口と見る向きもあります。しかし、ここは、そのまま“北の河”、つまり淀川を指します。その昔、カドマの川べりであったろうと思われる地に、今も茨田堤跡の一部が保存されている。

また「兩處〈フタトコロ〕の築〔ツツキ〕が有るが、壊れていて水を塞げない状態になっている」と、大雨や長雨による浸水被害を危惧してる。

堆積土によって出来た低地であるがゆえ、カドマの地もまた水害に悩まされていた。これを解消するための堤〔ツツミ〕また築〔ツツキ〕が必要となっていた、という事です。

ただ、堀江の掘削で出た土が、此処に使われたかどうかは分かりません。少し距離が有ります。使われたとしても、そう多くではないでしょう。大半は近くの平地・湿地に対して行われたと思われます。

 

何れにしても、堀江を作ったことで水害を減らし、出た土を盛って低地の海抜を高くする。一石二鳥…と、思い付く事はあっても、実行するのは難儀だった事でしょうね。

 

 

◇「結界
「堀江」は水害対策として掘られたのは間違いないが、実はもう一つ理由が有ったのではないでしょうか。
扇町(アハキ間の地)、北野(キタノ扇町の隣りにある地名)、兎我ッ野〔トガツノ〕、堂山〔ドウヤマ〕、茶屋町(チャヤマチ/元はカヤマ・チ)…。この辺り一帯にある地名ですが、全て埋葬地の呼称です。

 

巨椋池の西にある葛野地域(乙訓、神足、桂などがある平地)は人が暮らす地。
嵯峨野〔サガツノ〕、化野〔アダシノ〕などは、所謂 “祝園〔ハフリソノ〕”の地、また刑場。
これを隔つ幽顕仕切の役割を持つのが桂川

このような結界をナニワにも作りたかった。そんな思いも堀江を作る目的の一つだった、というのも大いに有り得ます。

 

「ツツカ」船場

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【ツツ考】[006]___
⒉ 空間「ツツカ」

◇「船場
 十六世紀後半の大坂(難波)では、都市開発の一環として東横堀、西横堀などをはじめ多くの堀が作られました。これらを掘って出る土、また川底を浚って出る土砂、この廃土は周辺にある低地や湿地帯の埋め立てに使ったと思われます。

このように土を広く一面に敷き詰めた土地、また盛った場所をツツカやツツマという。ツツが→センと転じ、カやマが→バと移り、センバになる。

広げるのもツツなら集めるのもツツです。土を一ヶ所に集め、積み上げて盛り地としたものはツツキ山(築山)、ツツカ山、ツツマ山、またセンバ山とも呼ぶ。肥後熊本のセンバ山も、浚い土による盛土で出来た場所の呼称であり、ツツカやツツマから転じた音と考えられます。

近世、大坂の海近くにツツキ山があり、転じてツツホ山といいました。これに当世の元号を充てて天保山〔テンポウやま〕と云うのですが、山にしては余りにも低く、当時の町衆はこれをデンボ山〔ヤマ〕と呼んで面白がった。

「広がり」と「集まり」という相反した状態を表わす語として、この両方に使われています。逆の意味を持つ言葉だけど元は同じ語(音)というのは、日本語の単語によくある事てす。

 

大坂城の西に広がる商都船場〔センバ〕の地名も、こうした敷き土に由来するものと思われます。だが、センバという呼称が初めて生まれたのは、どうもこの時代ではないようです。横堀が掘られる以前から、既にセンバは存在しました。

 

▽ちなみに。
 千羽鶴のセンバも元の音はツツカであり、空一面(ツツカ)、或いは池一面を覆う鶴の群れ「ツツカ・タヅ」をいいます。対象が鳥なので、ツツカから転じたセンバの音に千羽の字が充てられた。よって、1000羽の鶴という意味では無い。

だからと言って、千個の折り鶴を作って贈る“千羽鶴ごっこ”を、決して否定するものでは有りません。

「ツツキ」高千穂

【ツツ考】[005]___
⒉ 空間「ツツキ」

 

◇「高千穗

 《記》には次のような高千穗が出てくる。

  • 番能邇邇芸命は「天降坐 于筑紫日向 之高千穗之久士布流多氣」
  • 穗穗手見命(火遠理命、所謂山佐知毘古)は「坐高千穗宮」
  • 伊波禮毘古命と兄五瀬命は「坐高千穗宮而議…」

 

*高千穗とは何か。高の字は優れたものを表わす褒称の接頭語であり、音はタカ以外に、アツ、オホ、といった読みも有ったのではないか。

「ツツ」という音は色々な音に転じて使われますが、チチやセンに転じると「千」の字がしばしば用いられます。例えば、千日前の千日はツツカ、千本通の千本はツツホ、というのが原音の可能性があります。

穂の字はカ行音から転じたホの音に充てる。よって、高千穂とは高ツツキ(また大ツツキ)が元の音と考えられます。

 

九州には高千穗が二ヶ所ある。しかし、太古に於いてタカチホという呼称が、特定の土地を指す固有地名だったとは考えづらい。九州の此れらを邇邇芸命が降り立った地、また伊波禮毘古の出身地、などの候補地の一つとするのはよいが、決め付けるのは危険です。筑紫日向が、そもそも九州だけとは限らない。

 

◇「穴穗

成務天皇(十三代)は、近淡海之志賀高穴穗宮。
安康天皇(二十代)は、石上之穴穗宮。
これらを御所とするが、ここにある穴穗のとはなんでしょう。或いはの略字でありツツと読むのではないか。また、〔シシ〕なのかも知れません。いずれにしろ、高穴穗は高ツツキであり、王が住まう地の呼称と見る事ができます。

 

安寧天皇(三代)は、浮穴宮。穗の字が落ちていますが、恐らく是もまた元は大穴穗宮だったのでしょう。大の字をオホキと読み、→ウフキ→ウキと転じて発音され、この音に浮〔ウキ〕の文字を充てている。(書紀では浮孔宮とするが、ここでは穴の字まで孔に書き換える愚行を犯している。)

 

*宮崎県の都城〔ミヤコノジョウ〕など、そのままでしょう。元は都々城〔ツツキ〕であったと思われます。「漢書都城〔トジョウ〕の文字が有る」そうですね。それが、どうしたんですか?

 

*《天武紀》十二年十二月の条に「凡都城宮室非一処、必造両参。故先欲都難波」〈凡そ都城や宮室は一ヶ所ではなく、二・三は必ず造る。故、先づ難波に造ろう〉という記述があります。
ここにある都城・宮室は、王が住む土地、暮らす建物を意味するものであり、ツツキ・ミヤムロを難波にも造ろうと云っているのです。

 

*山代のツツキ(筒木、今は綴喜)の地。埼玉県のチチブ(秩父)。沖縄県のシュリ(首里)。高麗のソルギ(疏留城/《天智紀》元年春の条)。これらも恐らくツツキが原音でしょう。

 

*「ツツキ」とは。
 始まりは恐らく、環濠・城柵に囲まれた立派な「王城の地」(王が住まいする集落)を指すと思われます。これをオホ・ツツキと云った。ツツキがチチホと転音し、この音に高・千穗の字を充てた。そしてまた、この濠や柵に護られた内側の敷地をカツノ、ツがサに転じてカサノといい、更に略してサノ(佐野)といいます。
また、仕切られた良い空間はソノ(苑、薗、曾野)と呼びます。

 

 

◇「音と表記

*筒木〔ツツキ〕、綴喜〔ツヅキ〕、都築〔ツツキ〕、飛鳥〔ツツキ〕。
*ツツキ(都都城都城)、ツツホ〈突穗→穴穗)、チチホ(千千穗→千穗)、シシヂ〈宍道)、シシホ(宍穗)、チチフ(秩父)。

 

王城の地は整地された広い平らな空間だったのでしょう。これを上代の人はツツキといい、さらにキがホに移りツツホと呼ばれる。

キツ川の一つがホツ・カワ(保津川)になり、カツマがホツマやホラマになるように。「ホ」の音には、素晴らしい、神聖な、といった意味がある。

 

*先にも出ましたが「浮孔」は、本来、オホ・ツツキであっのが、大穴穂〔オホキ・アナホ〕といった表記と発音がなされる。

大の字をオホキと読み、オホキ→ウフキ→ウキと転じた音に浮の字を、穴を同義の孔の字に書き換えたものと思われます。

ここまでイジられると、この語だけから原意に辿り着くのは最早不可能でしょう。書紀にはこういうのが多い。

 

 

◇「都城

大陸に於ける都城〔トジョウ〕とは、城壁によって囲まれた大きな町をいいますが、これも元はツツキではなかったか。特に周代に見られるが、周は何かと文化的に日本と近い国です。

現在、中国〔チュウゴク〕と呼ばれる国を支配している種族とは異なる先住民族が、かつてこの地域に広く住んでいたのでしょう。

 

 

▽ちなみに。
 竜宮城とは「ツツキの宮」の音に「都都城ノ宮〔ツツキのミヤ〕」の字を充てたのが最初の表記だったのではないか。この都都〔ツツ〕を竜に変えて「竜城ノ宮」となった後、作為が加わる。

意図的か勘違いかは分かりませんが、何処かの時代に竜城宮の「城」と「宮」とが入れ替わり、竜城・宮→竜宮・城、と文字移動した。

「在海中」〈海の中にある〉という書きように対し、これを海底・水中にある城とするのですが、解釈の誤りですね。勿論これは海の彼方の意です。当たり前でしょ。

なのに、火遠理命(山佐知)も、浦島太郎も、みんな海の底に行く。

 

「ツツカ」永遠

【ツツ考】[004]___
⒈ 時間 

「永遠」
《景行記》倭建命の条。

   坐酒折宮 之時歌
 曰 邇比婆理 都久波袁須疑弖
   伊久用加 泥都流

   爾其御火燒之老人 續御歌
   以歌曰
   迦賀那倍弖 用邇波許許能用
   比邇波 登袁加袁

是以 譽其老人 卽給東國造也

 

○(甲斐の)酒折〔サカサキ〕ノ宮に坐しし時 歌いて、曰く「新治〔ニヒバリ〕、筑波〔ツクバ〕を過ぎて、いく夜か 寝ただろうか。」

ここに火焼き〔ヒ・タキ〕の老人、御歌に続けて、
以って歌い、曰く
  「日々を並べて 夜は九夜、
   日(昼)は十日を。」
是を以て、其の老人を誉め、即ち東国造を給いき。


◇疲れ切った表情の倭建命が、独り言のように呟いた言葉に、老人が少し陽気な声(だったか)で返した。歌と云うより、倭建命と火焼之老人のちょとした会話です。

一見、何という事のない遣り取りですが、これによって火焼之老人はクニ(カツマ)を一つ賜わるのである。ここには吉祥の言葉遊びがあります。

 

「トワ(永遠)という語
 古語で数の十をツツといいます。よって、十日をツツカ(音便でトカ)という。
また別に、ツツを続、カを世、とするツツカ「続く世」は、ツツカ(クァ)→トトハ(ファ)→トトワ(ウァ)と転じて、トワ(永久・永遠)という言葉にもなります。

そこで、二人の会話は次のようなものになる。
倭建 : …、幾夜か〔ヨウ・か〕寝つる。
老人 : 日日〔カカ〕、並〔ナ〕べて、
   夜〔ヨウ〕には九夜〔ココノ・ヨウ〕、
   日〔ヒルマ〕には十日(ツツカ)を。

倭建命が云うところの「夜〔ヨウ〕か」の音を「八日〔ヨウカ〕」に掛け、直ぐさま、

日日〔カカ〕並(七)べて、
夜(八、世)には九の夜(九重、安定)
日(王家)には十日(ツツカ=永遠)を。

〈世々カカを連ねて、大王の時代は安定し、王家は永遠です〉と返すのである。

 

*王族の者にとって、揺るぎのない大王の治世と、千代に八千代に継承され続ける王家である事は最重要課題であり、これに関する縁起の良い言葉は何よりも嬉しいものだった。

老人は、これを七・八・九・十、と数字を並べた言葉遊びをしながら、瑞祥の辞を著して見せたのです。倭建命はこの機転に先ず感心をし、またその出来栄えに甚〔イタ〕く喜びます。
長らく笑っていなかった倭建にとって、心を和ませてくれた一時〔ヒトトキ〕だったのでしょう。

A:「何か用か(七日,八日)…。」
B:「九日,十日。」

この言葉遊びの始まりがここにある。

 

※細かい事を云うと、ヨウ(夜)の音はカから転じたイァウ→ヨウであり、ヨオカ(八日)のヨオはヤツの音便によるヨウです。

  • カ→ キァウ→チァウ→イァウ(ヨウ)
  • ィアツ→ヤツ→ヤフ→ヨウ

元の音は全く違うが耳には同じ語呂であり、音遊びをする上で、何の不都合も有りませんね。