「ツツマ」天満

f:id:woguna:20220305080028j:image

【ツツ考】[008]___

◇「天満
《仁徳紀》號其水曰堀江

 堀江を作る際に出た掘削土は、高津宮の西(大阪湾側)にも敷かれたでしょう。その平地はツツカといい、転じてセンバと呼ばれます。そして、以降それぞれの時代で千波、洗場、そして舟場、などの字が充てられる事になります。

堀江の北側にも土を広く敷き詰めたでしょう。その地をツツマといい、この音がツンマ、そしてテンマと転音して天満の字を充てる。

「何を言ってる? 天満宮があるから天満だろ。」

違うと思う。テンマ(ツツマ)に有るから天満宮だと思われます。京都の北野天満宮だって川縁〔かわべり〕の未開地(キツノ)に、土を敷き詰めて出来た地(ツツマ)に造られています。

北方面にあった土地なので、キツノの音に北野の字を充てます。地名が先です。

天満の名の由来って知ってます? 「菅原道真の怨霊が雷神となって天に満ちたから」なんて言われてます。そんな地名由来を信じるんですか? そもそも、テンマの地名は道真が生まれるより、ずっと昔から有ったでしょう。

 

*堀江の、北と南のツツカ(またツツマ)に対し、音に違いを持たせて呼び分けが為された(センバとテンマ)と考えられますが、意図的というよりも自然に音分けが進んだと言う事でしょう。

 

◇堀江の北は埋葬地でもあったことにより社が作られ、これを天満の社と呼んだ。
初期の頃はおもに埋葬業務に携わる役目を担ったと思われますが、或いは堀江や神社が出来るよりずっと昔から、岐神(フナトのカミ/海の守り神)が置かれていたのかも知れない。

*岐神とは、邪悪な神の侵入を防ぐ強い神、キツ・ツキ(岐〔キ〕ツ・神〔キ〕)から始まる。キツが、→キヌ→クナと移る。クがフに転じ、フナ・トキの音に変わったのち「船・渡御」の字を充てた。

 

◇「天神
 時代が下って、何故か菅原道真を祀るようになり、すっかり学問の神を祭る社に変貌してしまいました。何故、道真が主祭神なのか。社〔ヤシロ〕の歴史は道真より古い筈なのに。

天満宮の傍には必ず川が流れている。京都の北野天満宮の西には天神川がある。道真は天神と呼ばれる。どう関係してるのか。

神社によっては、時世の変化に合わせて祭る神を新たに加えたり、合祀される神の扱いを変えることは珍しくなく、結構いい加減です。それにしても、天満宮主祭神が入れ替ってしまったようです。

古代から「岐神・塞神〈フナトのカミ・サエのカミ〉」を祀る風習はあった。それに「菅原道真・天神」が合体し、「天神祭り」となっていったのでしょう。

人口の増加は町を裕福にします。それに伴い祭りも盛大に催されるようになる。長い歴史を経た天満宮は、すっかり土地に根を張り、町衆からは親しみを込めて “ 天神さん ” と呼ばれています。

 

上町台地の北にある低地は、かつて千里丘陵と繋がっていた名残りですが、同時に川が運んできた土砂の堆積によって出来た土地でもあります。

その中で天満の辺りは比較的高い地形であることが衛星解析写真によって見て取れます。これは堀江の掘削によって出た土が、大量に乗っているからではないか。

また、神社周辺は早くから木々が茂る森になっていた(天神の森と呼ばれる)ようで、これも浸水の無い高い土地であったことによるものでしょう。

 

◇舟場(千波)は難波大坂の中心地ですが、天満地域にも多くの人が住み、「天満千波地子五千石」と云われ、慶長十四年(一六〇九)の頃の人口が、両地合わせて少なくとも二十万人は暮らしていただろうと推測されています。

 

▽ちなみに「扇町
 大阪天満宮(天神の森)の北には低地が広がっており、その一角に扇町と呼ばれる地がある。この地名の元は、二つのことが考えられます。

*ツツマ・チ→センマ・チ→扇町→オオギマチ。
◯ツツがセンに転じた音に扇の字を充てるが、後に訓読みオオギになる。

※センマ・チの音に扇町を充てるのは重箱読みになる。ただ、洗場、舟場、なども同様であり表記としては何ら特殊ではなく、むしろ普通のことです。

*アハキ・マ→オホキマ・チ。
◯地続きの堆積広間をアハキ・カラツマ・チという。この音の略され方は色々あって、アハキ・ハラ、アキ・マ、オホギ・マ・チなどになる。このオホギに扇、マ・チに町が充てられる。

※そもそもマチ(町)という語が、カツマ・チ、カヤマ・チ、タギマ・チ、といった「マのチ」から出来ている。
 

或いは、これ以外の理由(例えば、扇作りが盛んだったから、とか)があるかも知れないが、今のところその痕跡は見つけられない。