堀江

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【ツツ考】[007]___
⒉ 空間「ツツカ」

◇「堀江
《仁徳紀》
 十一年冬十月。掘宮北之郊原、引南水以入西海。
 
因以號其水曰堀江。

宮の北の郊〔はずれ〕の原を掘り、南の水(大和河)を引き以て西の海(大阪湾)に入れり。因りて其の水(河)を以て名付けて曰く、堀江。

 

南の水を西の海に通す工事とし、この水(川)を名付けて曰く「堀江」と記している。(大和川の水を大阪湾に流す水害抑制の為のバイパス運河と思われる)
※現・大川と推定されていますが、間違い無いでしょう。運河と書きましたが、大阪湾と難波津の入江を繋ぐ形なので、小さいですが人工的“海峡”と言った方が正確かも知れません。

堀った幅はそれほど広くはなかったように思われます。せいぜい曳船がすれ違える程度でよかった。あとは水流が両岸の土を、勝手に削っていってくれる。しかし長さは2km程度あったでしょう。結構な距離です。(現・大阪城北詰あたりから、その頃の海岸線だった淀屋橋あたりまでとした場合)

当然、大量の土が出た筈ですが、これをどう処理したのだろうか。堀江の周辺の低地に、敷いたであろう事は容易に想像がつきます。

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◇かつて(五千年以上前)此処ナニワに有った入江は、東の生駒山、西の難波崎、南は八尾・平野の地、北は三島の入江に至る広い内海でした。

ところが、4〜5世紀の頃には大和川が運んでくる土砂により、水地南部が既に広い扇状地になっており、その平地に幾本にも分かれた細い川が北に向かって蛇行する、そんな環境になっていた。

 

◇また、大和川と淀川の水が両方からやってきて、ぶつかる辺りは更に土が堆積し易く、入江を南北に分ける様な土地が出来ていた。この陸地はカツマといい、転じてカドマと呼ばれたようです。

初期の頃は、入江に出っ張った角地のようであったことから、カドマの音に角間の様な字を充てたのかも知れません。今の表字は門真になってます。

この陸地の西の先端は徐々に延び、難波崎の側〔ソバ〕まで達し、その辺りはカツマ・チ(現・片町)と言われます。これによって南の水の出口が狭まくなり、雨量が多いと捌ききれなくなった水が、川淵の民の田畑を浸す。

水路の新設が求められた。ルートは。規模は。日数は。費用は。人は。時期は。役人が集まって、色々考えたでしょう。どうしたものか。無理かも。でも、何とかしないと。そして…。
「よし、十月から作業を始めよう」
鶴の一声だった。

 

◇《書紀》の、先の文章(堀江、云々)に続けて、次の記述もあります。
  又、將防北河之澇、以築茨田堤。
 是時、有兩處之築而、乃壞之難塞。

[澇]イタツキ。ここでは、大雨による浸水、の意。「イタんだ・ツキ(傷み・の地)」が原音(原意)でしょうか。[築]ツキ。元はツツキ。土を集めて作った盛山。[堤]人工堤。堤防。

ここにある「北河」に返り点を付け“河の北”と読み、大和川の河口と見る向きもあります。しかし、ここは、そのまま“北の河”、つまり淀川を指します。その昔、カドマの川べりであったろうと思われる地に、今も茨田堤跡の一部が保存されている。

また「兩處〈フタトコロ〕の築〔ツツキ〕が有るが、壊れていて水を塞げない状態になっている」と、大雨や長雨による浸水被害を危惧してる。

堆積土によって出来た低地であるがゆえ、カドマの地もまた水害に悩まされていた。これを解消するための堤〔ツツミ〕また築〔ツツキ〕が必要となっていた、という事です。

ただ、堀江の掘削で出た土が、此処に使われたかどうかは分かりません。少し距離が有ります。使われたとしても、そう多くではないでしょう。大半は近くの平地・湿地に対して行われたと思われます。

 

何れにしても、堀江を作ったことで水害を減らし、出た土を盛って低地の海抜を高くする。一石二鳥…と、思い付く事はあっても、実行するのは難儀だった事でしょうね。

 

 

◇「結界
「堀江」は水害対策として掘られたのは間違いないが、実はもう一つ理由が有ったのではないでしょうか。
扇町(アハキ間の地)、北野(キタノ扇町の隣りにある地名)、兎我ッ野〔トガツノ〕、堂山〔ドウヤマ〕、茶屋町(チャヤマチ/元はカヤマ・チ)…。この辺り一帯にある地名ですが、全て埋葬地の呼称です。

 

巨椋池の西にある葛野地域(乙訓、神足、桂などがある平地)は人が暮らす地。
嵯峨野〔サガツノ〕、化野〔アダシノ〕などは、所謂 “祝園〔ハフリソノ〕”の地、また刑場。
これを隔つ幽顕仕切の役割を持つのが桂川

このような結界をナニワにも作りたかった。そんな思いも堀江を作る目的の一つだった、というのも大いに有り得ます。