10「市寸島」

地名国名[027]
10、キツ・キツマ

◇「キツ・キシマ」
 キツマとは、ヒロマ(広間)やヒロバ(広場)といった語になる音だが、決して広くない土地や島であっても、ある程度の平地があればキツマと呼ばれる。

面を表わす語はカツカと言います。日本では土地をいう場合、後ろのカがマになり通常はカツマになります。ただ、キツマの語もしばしば使われる。そして、さまざまな音に転化する。その意味する、ところは「清浄な土地」をいう。

(※中東の国名にある、例えばキルギスタンはキツ・キツカ、パキスタンはカツ・キツカ、であろうと推測できます。カがタンに転化する)

 

○「市寸島比賣命」
古事記》によると、天照大御神須佐之男が宇気比〔ウケヒ〕をします。天照が、須佐之男の佩く十拳の剣をサガミニカミテ、吹き付けた狭霧に生まれた神・三柱女子の中に、市寸島比賣命の名がある。この比賣は胸形之中津宮に坐すとある。

この胸形とは福岡県宗像の地とされる。この市寸以外にも市杵島、市来島、また臼杵島などがあるが、これらのイチキやウスキという音も元はキツ・キシマであったでしょう。それを比賣に準えている。

 

京都市西京区にある松尾大社の祭神は、大山咋神と市杵島媛命である。市杵島媛が祀られた謂れは《本朝月令》に「筑紫胸形に坐す中津大神、松埼日尾に天下り坐す。大宝元年(七〇一)、川辺腹の男、大忌寸都理、日埼岑より更に松尾に奉謂す」という。

だが、松尾大社がある地(葛野)は昔からイチ・キシマと呼ばれており、筑紫胸形(九州)からわざわざ持って来る必要はない。

 

○「伊知遅志麻」
《応神記》に、天皇が木幡の道で八河枝比賣に出会う場面がある。その際、比賣の家で料理を振舞われるが、その中に蟹があった。その事と、この地から見える風景を掛け合わせた歌を詠んだ。その冒頭に次のような文句がある。

 許能迦邇夜 伊豆久能迦邇
 毛毛豆多布 都奴賀能迦邇
 余許佐良布 伊豆久邇伊多流
 伊知遅志麻 美志麻邇斗岐…

 この蟹や いづくの蟹
 もも伝ふ 角賀の蟹
 横さらふ いづくに至る
 イチヂシマ 三島につき…

品陀和氣命は、巨椋池の東岸を北に向かって歩いていた。(この附近に木幡の地がある。)

「この地から西を望むと、
 大池の遥か向こう(対岸)に平地が広がり、
 水田や人家が賑やかに
 並んでいるクニ(カニ)が、
 遠くに、しかしハッキリ見える。
 視線を左手(南)に移動させると、
 イチヂシマがあり、山崎がある。
 更にその向こうは、三島へと続いて…」

この歌は、そんな風に解釈できる。(※三島=現・島本町高槻市

カニは蟹と同時に、カシマ(国)をカニシマとして「イヅクのカニ」と「何処のクニ」を掛けている。此処にあるイチヂシマとはキツ・キシマが転じた音であり、少なくとも四世紀の頃には既にあった呼び名と云うことになる。

 

○「一支島」
 所謂《魏志倭人伝》に記す国名の中に一大国というのがある。一説に「大の字は支の誤りか」といわれる。

この国がキツ・キシマであり、転じてイツ・キシマと呼ばれていれば、その音に一支島の字が充てられたというのは十分有り得る。すると、大ではなく支であった可能性の方が高い。

支の字は或る時期からシの音になるが元はキである。ただ、もう一つの可能性として、イツ・カラシマの音に一大国の字を充てた(カラの音に大の字を充てる)と考えられなくもない。

 

○「伊伎島」
 二神による国生みで生まれた大八嶋国の一つに伊伎島の名がある。亦の名を天比登都柱という。一般的には「イキのしま」と呼ばれるが、本来はキツ・キシマであったろう。これがイツ・キシマ(伊ツ・伎島)と転じた。

《書紀》では壱岐島(本文では大八洲国に含まないが、一書曰では入れている)と表記されるが、こちらはキツから転じたイチの音に壱の字が充てられた。

また、この地にあったキツ・カツラと呼ばれる地をイチ・ハシラと発音し、このイチには一の字、ハシラに柱の字が充てられる。さらに、一をヒトツと読んだ事により、比登都柱という表記ができたのだろう。

キツ→イチ→ 一(壱)→ヒトツ〔比登都〕という暗号伝言ゲームのような転化ルートです。