17 -4「勝山」「茶臼山」

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17、カヤマ〈4/7〉

 

◇「勝山

 四天王寺の東に勝山古墳があります。元は前方後円墳でしたが、今は後円部のみが残る。前方部も公園〔コウエン〕になっています。

 カヤマ→カツヤマ、→オカツヤマ
       勝   山    御  勝 山(岡山)

勝山という名は大坂冬の陣の際、ここに陣を置いた徳川秀忠が名付けたとか、あるいは徳川方が勝ったところからそう呼ばれた、などと云われます。

しかし、死者を埋葬した場所に造られる盛山をカヤマまたカツヤマと呼ぶのは、数千年の歴史を持つ言葉(日本語)であり、昨日今日の話では有りません。

元々あったオカツヤマ(岡山、また岡津山と表記)の音に、武運を求めた御勝山〔オカチヤマ〕の文字を充てたのが仮に秀忠だったとしても、この者がカツヤマという名称(音)を作った訳ではない。

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*「幻の巨大墳墓
 この古墳の北側に妙な形の道があります。半円を描くように二重(或いは三重)になっています。かつて難波津の入江があった頃この辺りが海岸線で、水辺に突き出た地形に沿ってできた道とも考えられてます。

道の一方の端はそのまま西に真っ直ぐ続いており、今はアーケード商店街になってJR環状線桃谷駅」へと向かいます。これは桃谷駅ができた時、道の途中から駅まで繋げたものでしょう。駅ができる前の本来のコースは、西に向かった先が左(南)へとカーブしています。

半円状の道のもう一方の先は、勝山古墳の手前で途切れています。古墳の南側には、これに続く道らしきものは確認できません。

ただ、全体をぼんやり眺めると、なにやら釣鐘型、或いは縦長〔たてなが〕の三角おにぎり、といった形が見えてきます。

 

勝山古墳は水濠を備えており、墓は100〜120㍍、濠の全長は150㍍程度あったと推定されています。もし “縦長三角おにぎり” の道が前方後円墳・水濠部の輪郭だとした場合、全長は600㍍を優に超える規模になります。

墓だとした場合、既に存在していたものを廃墓にしたのか、または造営途中に打ち切ったのか。その理由は何か。被葬者は誰だったか。

何れにしろ、難波(半島)という土地環境にあっては余りにも巨大過ぎたため、難波と大和との行き来、また地域利用の観点などから不便であり、何処かに移転したのでしょうか。

その後、廃墓の土地の一角に現・勝山古墳が造られるのですが、この二つの墓に何らかの関係性があるのかないのか、何も分かりません。今となっては調査のしようもありませんね。

  • 想像の話ですが、旧墓は「大雀(仁徳天皇)の元墓だった」というのはどうでしょう。堺市の大山古墳の造成時期が大雀の時代より、かなり後ろにズレている、という理由が説明できます。

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◇「茶臼山

 四天王寺の西にある茶臼山古墳は、自然の地形に造られた墓と思われます。よって、前方後円墳などから出土する品(吹石や円筒埴輪など)は一切見当たらない。

 カツヤマ→チャウスヤマ
        茶 臼 山

カの声音転化パターンの一つに、カ→キァ→キャウ→チャウ(チョウ)というのが有ります。
カツヤマのカがチャウと転じて発音され、カツがチャウツ(ス)になり、この音に茶臼の字が充てられた。

全国に数多〔アマタ〕ある茶臼山の発祥が何処であったかに付いて、記録や言い伝えに出会ったことは無いが、茶臼という言葉が地方で使われ始めたとは思えません。

鎌倉時代の僧・明恵が、宋から齎〔モタラ〕された茶の木を栽培したのが、日本に於ける茶の始まりと云われます。当然それ以前に茶は無いし、茶臼という言葉自体が存在しません。

茶は高級品であり、一般人が口にする(目にする)ことなど無かったでしょう。喫茶は室町時代の末期に京・大坂などの裕福層で盛んになり、千利休によって茶道という一つの文化に昇華するに至ります。

これを思うと、茶臼という語が身近であった畿内にあるチャウスヤマ(カツヤマ)のどれかに、茶臼山の字が充てられたのが始まりではなかったか。その後にこの表記が全国に広まったと思われます。

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四天王寺の東にカツヤマ(勝山)があり、西にチャウスヤマ(茶臼山)がある。この茶臼山がこの表記第一号かどうかは分かりませんが、有力候補の一つにはなりそうだ。

 

 

▽ちなみに「天下茶屋
 西成区四天王寺の西南)にある天下茶屋の地にも墓が有ったのではないか。町名の音を遡ると、元は「タツ・カツヤマ・チ」であったと推測できます。

 タツ・カツヤマ・チ→テン・カチャヤマ・チ
            天 下 茶屋  町

西方面を表わす語のツ・アツが、→タツ→タン→テン、カツヤマがカチャヤマと転じ、うしろにチ(地)を付けて「テン・カチャヤマ・チ」になり、この音に天下茶屋町の字を充てる。※ここでのチャの音はツからの転音。

マチ(町)という語は、例えばカツマ・チ(カツマの地)→カタマチ(片町)になったり、カヤマ・チ→チャヤマチ(茶屋町)になったり、こうして生まれた言葉です。

後にマチ(町)の音(字)が普通名詞として外される。天下茶屋もまた同様の経緯で地名となったのでしょう。

 

天下茶屋は、天下人豊臣秀吉住吉神社参詣の途上に、この地にあった茶屋で一服した事から付いた地名、などの説が流布する。

秀吉が茶店で休憩した事実が有ったとしても、果してそれが地名の由来になり得るだろうか。チャヤ(茶屋)という語に引き摺られた想像話ではないかな。

 

大阪市住吉区に「帝塚山古墳」がある。
 タツ・カヤマ→テヅ・カヤマ(帝塚山
と転じたと思われますが、こちらはカツヤマではなく、カヤマのままの音です。

帝の文字を使うのは、埋葬者が皇族系の人だからなのでしょうか。早くに盗掘にあっており、詳しい事は一切不明です。

被葬者に関して大伴金村(親子)という説(江戸時代)が有りますが、多くの人が “ちょっと距離を置いて眺める” 説で、あまり支持は得られていないようです。