20-2「阿波岐原」

地名国名[056]____
 かつて水地だった所が陸地になる。土砂の堆積によるものや、何らかの理由で水が引いて水底が露出して出来た場合もあります。アキ・カラツマ、アハキ・ハラなどと呼ぶ。

20、アハキ原〈2/2〉

○「アキ・マ
 アキ・カラツマ(空き地、原っぱ)の音が元であり、これが転じてアキ・ハラスマ、略してアキ・マ、またアヂ・マといった語にもなる。

堆積土によって出来た土地だが、水に囲まれた州ではなく、陸と地続きの土地である。ある程度の広さは有るが、砂や痩せた土で出来た何もない空き間(アキ・マ)をいう。また、遠浅の砂地の汀をスマ・ハマ(須磨浜)といいます。

 

○「アハキ・原
《記》では阿波岐原、《書紀》では檍原の字を使うが、檍〔アハキ〕はこの字音を借りただけの、単なる充て字であり字義(樹木の名)は無関係である。

伊邪那岐が禊〔ミソギ〕をした場所について、
《記》では、
「到坐筑紫日向之橘 小門之阿波岐原 禊祓也」

《書紀》では、
「一書曰(六)、則徃至筑紫日向 小戸橘檍原而 祓除焉」
「一書曰(十)、還向於橘之小門而 佛濯也」

橘〔タチバナ〕は土地の呼称、小門〔ヲド〕は河口、阿波岐原〔アハキハラ〕は土砂の堆積によって出来た水辺の平地(空き地)をいう。

つまり「橘・小門・阿波岐原」とは、タチバナの・河口にある・空き地、という意になる。

 

◇「九州」なのか?
 記紀ではこの地を筑紫日向としており、そのまま解釈すれば今の九州(宮崎県辺り)という事になります。ただ、日向と表記される地が、必ずしも九州とは限らない。(※通番[008]参照)

伊邪那岐の埋葬地を《記》では「坐淡海之多賀也」とし、《書紀》では「構幽宮於淡路之洲 寂然長隠者矣」と異なるが、どちらにせよ近畿地域です。これを九州のどこか、とするのには少々無理がある。

 

◇「日向」なのか?
 上に挙げた《書紀》一書曰(十)を見ると「向」の字は日向ではなく還向に使われる。還向とは「帰り向かい(帰還の意)」です。つまり、橘の小門の方角に「戻って来る」という意味になる。日向の字は出てこない。その上ここには筑紫の字も無い。

もしかして、元々の表記は日向では無く、この還向だった可能性も視野に置くべきかも知れません。

二神(那岐・那美)による国生みの場であるオノゴロ島が、難波崎の北に点在した州(自然に出来た嶋、八十嶋)と仮定すると、伊邪那岐の拠点がこの辺りであってもおかしくない。

ここから禊をすべく、速い潮流の場所を探して(九州に面した豊後水道や関門海峡ではなく)淡路島周辺をウロウロするが、適当な場所が見つからず戻って来る。その途中に橘之小門があったのでしょう。

武庫川の河口にある角地の立花は、川が運んで来る土砂が明石海峡からの潮の流れに押されて溜まってゆき、広い平地を作っていました。これをアハキ・ハラスマという。

 

○「扇町
 難波崎の北にある低地に扇町大阪市)がある。アハキ・カラツマ・チ→アハキ・マ・チと短縮し、オホキ・マ・チ(オオギマのチ)と転じる。

「何も無い広い土地」の意だが、西宮から神戸にかけてある青木〔オオギ〕、王子〔オウジ〕、などの地名もアハキから移った音と思われる。全て堆積土によって生まれた平地である。